読点の作家。
太宰治は無頼派の代表であると同時に、常に読点の打ち所を考え、探し続けた作家である。
『人間失格』にはこういう一文がある。
忘れも、しません、むし暑い夏の夜でした。
ひとめでわかる。これが太宰治だ。こんな文体は他のどんな作家にも書けない。「忘れも」と「しません」とのあいだに、読点を打つすきまを見つけ出せる日本語の書き手は太宰治以外にいない。
この文章を読んで以来、読点の打ち方にずいぶん気を遣うようになった。メールなどでも、無駄に読点を打ってみたくなる。
今日、中上健次の評伝・高山文彦著「エレクトラ」(文藝春秋)を読んでいて、中上もまた、読点の作家であることが指摘されていた。
・日が、暮れかかっていた。
・女は、まだ昔の、どぶがにおいたてる路地に、住んでいた。(ともに「蛇淫」より引用)
江藤淳は「ことに読点を効果的に生かした文体が心にくく決まっている」と毎日新聞の文芸時評で評している。
このことを、少し、考えてみたい気がしたので、書き留めておく。