荒川洋治の眼。

 荒川洋治著「忘れられる過去」(朝日文庫)を読んでいる。単行本はみすず書房発行で、講談社エッセイ賞を受賞し、大変評判の高い本である。私はこの著者の本をきちんと読むのは初めてだが、先日の朝日新聞夕刊の記事で、現代の詩人を著書において痛烈に批判している旨が紹介されていた。
 その一部を引用する(白石明彦という記者が書いたもの)。「朗読会は自己満足の自殺行為」と見出しにある。

 今の詩人が熱心なのは、〈保守的な仲間づくり〉〈自己満足と自己陶酔の朗読会〉〈うわべだけの国際交流〉だという。 (1月24日付「朝日新聞」夕刊)

 この記事は強烈に印象に残った。そして読み始めた「忘れられる過去」。これが抜群に面白くて、今までどうしてこの人の本を読んでこなかったのかと、歯ぎしりしたくなるようなエッセイ集だ。著者は実にたくさんの本を読んでおり、詩人らしい簡素な言葉で表現された評論にはっとさせられる部分が多い。
 半ば過ぎに収録された「詩集の時間」という文章を読んで、ようやくこの詩人の本質がわかった気がした。彼は1974年に「紫陽社」という詩の出版社を自ら立ち上げ、これまでに260点もの作品を刊行してきたという。彼は詩人としての感性とともに、出版人としての鋭い眼を持っている。だから痛烈で、面白いのだ。(まだ読みかけ)

 ほかにもいろいろ好きな文章があるのでメモしておく。

 ただ、ものを書く人は、文字の「美意識」の凝りがとりはらわれたときに、一人前になる。あまり文字のイメージにこだわるのは「青い」証拠。たとえば、若いときはなにも知らないから「短編」、少しすると、おませになって、「短篇」、落ち着いてくると「短編」に、もどる。これがひとつの成長の、しるしである。一般的な文字をつかって、りっぱなものを書く。それが書き手の「技倆」だ。文字のこだわりからぬけでたとき、文章もおとなになるのだろう。文章は、文字ではなく内容なのだから。 (「短編と短篇」より、121ページ)

 この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである。 (「文学は実学である」より、152ページ)