福永の日記論。

 昨日買った「福永武彦戦後日記」から、池澤夏樹による序文「福永武彦戦後日記のこと」を読んだ。その中で、1952年前後に書かれた日記(今回収録されているものとはまた別の文献)から福永の日記論が引用されている。
 そこから一部を以下に抜粋。

 …現実が一度しか生起せず、それを常に意識し、その一度を彼の眼から独自に眺めるために、小説家に日記は欠くべからざるものであるだらう。日々の記録として価値があるのではない。小説家の現実と彼が如何に闘ひまた如何に自己を豊にしたかにその効用があるのだ。その日常が平凡でありその描写が簡潔であつても、その日記が詰らなければ作家である小説家が詰らないのだ。ゴンクールにしても、ルナールにしても、ヂイドにしても、文章が巧みであるとか、選ばれた場面が秀逸であるとか、感想が独自であるとかの理由によつて面白いのではない。彼等が自己が何者かを意識し、常に外界との接触で自己のコスモスを形成したその過程が面白いのだ。… (19ページ)

 私は小説家ではないけれど、もっと高い意識をもって日記を書くよう努めたいと思った。