中島岳志の書評。

 「俺俺」の評判をネットで見ていたら、中島岳志が7月18日付朝日新聞の書評で異常なほど絶賛している。これはちょっとほめ過ぎじゃないの? 「私は魂の底から涙を流した」とか「現代文学の金字塔だ」とか「ここに文学が存在する」とか、こういうの、普通はもっと婉曲的に表現するものじゃない? 本当に泣いちゃったのかな。
 面白いので、全文載せておく。

■承認されたい個、全体へと融解

 傑作だ。

 ファストフード店で隣の男の携帯電話を手に入れた俺(おれ)は、出来心でその本人になりすまし、持ち主の母親に振り込め詐欺を行う。しかし、その母親は俺を本当の息子と思い込み、次第に俺は「その男」になっていく。この現象が徐々に拡大し、俺が果てしなく増殖する物語。

 俺の職場は「メガトン」という家電量販店。俺は「メガトン」こそ自分の居場所だと思っていたが、俺が別の俺と入れ替わっても業務は回り、ただ果てしない日常が続くことに気づく。俺の存在は常に希薄で、いつでも「誰か」と代替可能な存在だ。しかも、「メガトン」には分かり合えない意地悪な上司が存在する。社内では同調圧力が強く、みんなが特定の人間をバカにすることで、ギリギリの共同性が保たれる。

 俺は「メガトン」の居心地が悪くなり、複数の俺との共同体を構成しはじめる。彼らはその場所を「俺山」と名づけ、次第にそこがかけがえのない居場所になっていく。

 「俺山」では、みんなが俺。日常世界とは異なる形の代替可能性が突きつけられる。しかし、俺はそこに「メガトン」では味わえない恍惚(こうこつ)感を抱き始める。

 「俺山」は、他者との葛藤(かっとう)がない社会。俺同士が心と心でつながり、分かり合える透明な共同体だ。そんな場所では、俺は意味ある存在として自己完結している。俺が大きな自分の一部である以上、俺たちは常に互いのために生きている。そんな実感が、この俺を支えている。

 しかし、俺の増殖が加速し社会全体を覆い始めると、俺の外部はなくなり、すべてが俺に変わり果てる。俺は有象無象の「俺ども」の部分に過ぎなくなり、「俺山」という固有の居場所が氷解する。すべてが「俺山」となる社会の中で、俺は精神のバランスを崩し、東京郊外の山中に逃げ込む。そこで俺が出会った世界とは……。

 結末は意外な展開に。その描写に、私は魂の底から涙を流した。

 派遣労働などが一般化し、個の固有性が希薄化する現代日本社会。入れ替え可能な個の群れが出現し、アイデンティティーを保つことが難しくなっている。

 俺が俺である必要性は果たしてあるのか? 俺は本当に他者から承認されて生きているのか?

 そんな不安ゆえに、人は他者とつながりたい。心と心で結びつき、互いに必要とし合う関係を築きたい。しかし、それが行き過ぎると、自己と他者との区別がつかなくなる。自己のアイデンティティーは他者の群れの中に溶解し、全体へと回帰する。

 本作は、現代社会の状況と普遍的な人間のアイデンティティーの問題に迫った現代文学の金字塔だ。

 今まさに存在の不安に押しつぶされそうな人は、ぜひ読んでほしい。全体主義ファシズムの「危うい魅力」に関心がある人にとっては、必読の作品。

 ここに文学が存在する。